【急行ひめかみ】時刻表の旅 1963年12月 上野→盛岡
HTML-код
- Опубликовано: 11 сен 2024
- 1963年12月ダイヤの時刻表をもとに、
動画内で再び「急行ひめかみ」を走らせてみました。
上野を出発した人々は、
それぞれどのような想いを胸に目的地へと旅立ったのでしょうか。
実際に乗車している時の風景はありませんが、
乗車している時に入ってくるであろう情報をお届けしています。
当時の雰囲気を味わうための参考としていただければ幸いです。
↓チャンネル登録はこちら
www.youtube.co....
↓公式twitter
/ tomoyankun_tv
お借りしたBGM
フリーBGM DOVA-SYNDROME
ワスレナグサ/作(編)曲 : まんぼう二等兵 様
#国鉄 #鉄道 #昭和38年 #日本国有鉄道 #発車時刻表 #時刻表 #東北本線 #東京駅 #上野駅 #過去鉄 #集団就職 #帰省
一昔の帰省ラッシュ、特に東北方面は凄く特急は席が取りにくく、急行は通勤ラッシュ並みの混雑で、観光バスを使った帰省バスがあった程だったそうですよ。
帰省バスは在京の私鉄傘下のバス会社(京急、相鉄、神奈中など)が多数運行していました。
まだ高速道路がなくずっと一般道路を走っていたこと、営業認可区域の関係上東京から東北などの片道輸送で帰りは国鉄の帰省列車で帰る必要があったもののかなりの人気だったようです。中には平成になる頃に往復、通年運行の高速バスに発展したものもありました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
今の混雑も大変ですが、当時の混雑は比較できないくらい過酷だったのですね。
一般道路を走行する帰省バスもあったのですね。片道は帰省列車を利用する必要があることにも驚きました。
@@tomoyankun さま
昭和50年代に首都圏のあるバス会社の帰省バスの広告を見たことがあるのですが、当時ですら東京を夜7時頃出て着くのは翌日の夕方というケースもありましたね。
90年代にたまたま横浜→田沢湖の高速路線バスの車庫の近くに住んでいたことがありますが、年末から年始にかけては羽後交通の貸切用のバスが20台以上いたこともありました。普段は地元のバスばかりの車庫が秋田から来るバスばかりになっていたのも凄いものでした。
品川篤志の帰省バスや、品川宮古間の帰省バス等は後に高速バスとして運行されましたね!
急行ひめかみは後に仙台と盛岡間の愛称になり、ヨンナナサンダイヤ改正で急行くりこま下り2号上り1号になりました。残りのくりこまはゴウサントウダイヤ改正まで全車指定席でした。この電車が急行として盛岡青森間で初めての列車でした。
いつもありがとうございます。盛岡は父の生まれたところです。
特急ははつかり号と盛岡行きのつばさ号、仙台までのひばり号がそれぞれ1往復しかなく、長距離輸送はまだまだ急行が担っていた時代でしたね。年末ともなると上野駅では数少ない仙台以北への昼間の急行としてかなりの列ができたことと思います。
食堂車がないことからお昼は持参の弁当か駅弁の購入だったのでしょう。ちょうどお昼頃の黒磯駅では多数の駅弁が売れていたのでしょうね。
停車駅からローカル線やバスに乗り継ぎ、皆様の故郷に着いてからの夕食では一年の思い出話に花が咲いたことと思います。
この頃都心で生まれたお子さまたちはもう還暦を過ぎていますが、新幹線のはやぶさ号に乗って、小さい頃に親に連れられて行った故郷を偲ぶ旅をしているのかもしれません。
故郷の変わらぬ景色、いつまでも大切にしたいものですね。
リクエストですが、カオスな運行スタイルだった四国の急行「よど」(高知~松山)「いしづち」(小松島港~阿波池田、多度津経由の松山行き。今の特急いしづちとは異なります。)を希望します。どちらもキハ58の1両か2両、全区間で他の急行と連結される小判鮫列車でした。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
この『ひめかみ』も多くの利用客が利用して、大変な混雑であったことが記録に残っていますね。
時刻表の数字だけでなく、利用している人の過ごし方を想像するとより深く楽しめるなと思います。
リクエストありがとうございます。
検討させていただきますね。
リクエスト 北陸新幹線敦賀駅時刻表 2024年3月16版
でお願いします!
積み残し救済列車とは...
やはり鉄道が一番輝いていたいい時代ですね...
臨時急行「ひめかみ」 上野 → 赤羽 → 大宮 → 小山 → 宇都宮 → 氏家 → 西那須野 宿 → 黒磯 → 黒田原 → 白河 → 郡山 → 福島 → 白石 → 仙台 → 塩釜 → 松島 → 小牛田 → 一ノ関 → 水沢 → 北上 → 花巻 → 盛岡 😮
急行ひめかみという列車をこの動画で初めて知りました。
更に言うと、姫神山という山も初めて知りました。
今となっては東北エリアは701系やE721系が走っていますが、客車列車や気動車、485系、583系が走っていた時代が面白かったのではないかと思います。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
私も時刻表を読んでいて見慣れない名称をみつけふことで知りました。
運用上は大変ですが、様々な形式の車両が走っている方が見応えがありましたね。
「横黒線」「橋場線」に時代を感じます。
高崎線 普通「柏崎」行き…!?
この頃だとまだ信越線横軽経由ですかね
この時代だと白河での白棚線乗り換えも案内されたと思います
今の北上線が横黒線だった時代ですね。
黒は北上駅の昔の名前の黒沢尻駅ですが、駅名は改称された後なのですね。
(北上市になる前は黒沢尻町だった)
黒沢尻という地名はラグビーの高校選手権で初めて知りました。今も県内では強豪のようです。
北上線はこの頃から仙台と秋田を結ぶ路線として活用され始めました。急行のあけぼの号(ディーゼル)がこの動画の時点の前年に走り始めていました。
東北新幹線の開業で田沢湖線がクローズアップされ、さらには近くに秋田自動車道があります。
一度乗りましたが、ローカル線、お客様もほとんどいない状態です。かつての賑わいが偲ばれる施設があちこちにありました。
昔は、お盆と暮の帰省時期は国鉄利用が多くて大混雑した。
列車の始発駅では「発駅着席券」が発行され、それを求めて長い行列が出来た。
TVとかのニュースでも流れていた。
飛行機も高速道路もない時代、東北へは国鉄でしたね。
特急はプラチナチケット、急行は詰め込み。着席券は争奪戦、取れなければ夜行列車のために午前中から上野駅に並んだようです。
昭和40年代ともなるとさらに乗客は増え、夏は汗だく、冬は寒い中テント村で待っていたそうです。
私は40年代後半生まれなので少し後の時代しか体験していませんが、お盆や年末年始の帰省に備え、毎回母親が1ヶ月前にみどりの窓口へ行き、切符を買ってくれていたのを覚えています。指定席だったから座れていましたが、通路やデッキに立っている人も多くいらっしゃり、特に年末は下車が大変だった記憶があります。
@@user-er4uw7pg1oさま
昭和50年代ともなると逆に国鉄は毎年のように運賃、料金ともに値上げ、高速道路の発達、航空路線が増えたこと(特に国内の幹線は747が当たり前)もあって国鉄による輸送量はがた落ち。
高度成長期に物価の上昇ほどに国鉄運賃を値上げしなかった弊害がきてしまいました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時の混雑さを物語る体験と、その背景の考察が大変勉強になりしました。
今になってかなり便利な時代になったことを再確認しました。
福島で編成半分を切り離しているところをみると、“ひめかみ”が“青葉”の上野〜仙台間と、“みちのく”の仙台以遠の双方の補完を担っていたということでしょうか。当時は謎運用で知られる“しらかわ”などもあったと思うので、国鉄が意外とフレキシブルに臨時列車を走らせて需要に応えようとしてくれていたように思いますね。
客車だからこそ出来たものですね。
!?
こんなのあったんだ!
うちのやつに聞いてみます!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
私も時刻表を読んでいて偶然知る事ができた列車でした。当時はユニークな列車が数多く存在しており、楽しめる時代でしたね。
そもそも、この時期の前の大改正「サンロクトオ」では、急行「青葉」は客車列車で、(仙台行きにもかかわらず)青森行きと盛岡行きの客車を1両ずつ連結し、仙台で「みちのく」に渡していたので、「青葉」も「みちのく」の補完列車だったのでは?
1字違いの急行ひめかわやってほしい
尺が...
「鉄道が元気のあった時代」と言えば聞こえは良いが、この時代の鉄道なんて混む・待つ・座れぬの三拍子、車輌も今の目で見ればボロでお話にならなかったぞ。みんな我慢して乗ってたから、車に乗れるようになれば真っ先に逃げたな。